先日映画ファミリアを鑑賞しその舞台となった愛知県豊田市にある保見団地を再訪した記事を書きましたが今回もその続きを。

映画ファミリアへの違和感と保見団地再訪

私が保見団地に通っていたのは2000年代で団地の状況が一番悪かったころだと思います。日系ブラジル人労働者の日本へのデカセギが始まったのは1990年代ですが当初は日本語や日本の文化習慣が分かる日系2世がデカセギの主流でしたし当時は日本もバブル景気の余韻があり稼げたので家族をブラジルに残し単身、あるいは子供をブラジルに残し夫婦でデカセギに来る日系人が多かったはずで大した問題も起きなかったはずです。

その後日本が平成不況に入り企業が人件費を削減するために日本人正社員をリストラし派遣社員に切り替える「偽装請負」という手法が違法でありながら製造業で大流行し社会保険料を払いたくない日系ブラジル人労働者が「金の卵」となり日本語が出来ない日系3世でも採用する企業が増え単身での来日が始まりました、残業も減って仕送り貯金できなくなりデカセギが長期化し家族を日本に呼び寄せ日系人の定住化が進んだのもこの頃でしょう。

若く日本語も日本の文化の習慣も知らない日系3世が単身で来日し派遣会社の寮で生活しゴミの出し方や車の駐車、騒音などの問題が多発する結果に、また親の都合で来たくもない日本に呼び寄せられた日系3世や4世は日本の教育についていけず不登校や非行の問題が発生しました。当時も今と同様「外国人で人手不足解消」みたいな風潮があり、日系ブラジル人を労働力としてバンバン受け入れていましたが生活や教育面の受け入れ体制はお粗末というか何もなかったと思います。

その後問題解決のために外国人支援のNPOや行政の支援が始められ保見団地の日本人と外国人住民の軋轢も徐々に改善に向かい、2008年のリーマンショックから東日本大震災による日本での生活能力の低いブラジル人の母国帰国ラッシュが追い風になりましたが、日本人住民とブラジル人住民の関係が改善した一番の理由は日本語が分かり日本の文化を知る日本生まれや日本育ちのブラジル人の子たちが成長したからだと思います。ここらへんは今後の外国人労働者や移民受け入れの大きなヒントになると思いますが。

1977年に作られた保見団地はもうすぐ50歳、1万1千人いる人口のうち外国人の割合が55%と年々外国人比率が高まっており、今後もその傾向は続くでしょう。100年後も保見団地があったらブラジル人住民が100%でポルトガル語しか通じない「ブラジル人コロニア」になっているかも知れません。保見団地には今後も注目定点観測していきたいと思います。【業務週報2023年1月第4週】

お問い合わせ